このところ、木村剛氏のBlogにはまっている。面白い。
しかも、年金問題をとりあげた瞬間に、江角マキコが年金未納だってさ。タイムリーすぎる。
ちょっと話がずれると国民年金の問題って、単に財政だけの問題にとどまらない。企業年金とセットになって日本国民のモラルを著しく悪化させているということを気づいて欲しい。
企業年金で今起きているのは、死ぬほど働かなければ生きていけない、今の若い世代(特にホワイトカラーの労働環境の悪さはひどい)にとって、年金問題は世代間対立を意味している。彼らが(俺もかつてはその一人)死ぬほど働いているのに、賃金があがらずにいるのに、年金負担だけは増えていく。年金を受け取る側の多くは、それを当然のこととして受け止め、あいかわらずえばりくさっている。その結果、年長者を尊敬する気持ちは失せていき、若年層のモラルはどんどん下がっている。しかも、若い衆の年金は無くなったり、401Kに切り替えられたりする。
ほとんど同じ構図で、世間一般の若年層のモラルが下がっている。支払いも保証できない年金を偉そうに「払え」と言っている官僚が、これまで運用を糞みたいな保養施設なんかにつぎ込んできて、その運用失敗についてはなんの責任もとっていない。しかもあいかわらず偉そうだ。
働く意欲というのは、単に生活に必要な金があればいいというもんじゃない。きちんとフェアな状況がなければ、人間はやる気をなくす。こんなに、アンフェアなことばかり起きていると、きちんと働こうという意欲が減退してもしょうがない。もちろん、フリーターの増加とかって、それ以外にも要素があって発生している事象なんだろうけど、こういうところで官僚や経営者にきちんと反省してもらわないと、絶対物事はよくならない。一応経営者になるための学校にいるので、自戒をこめて書いてみました。
PS. 少しは官僚の人に出会ったことがあり、個人的には彼らは優秀だと思うし好きなんですけど、やっぱり動脈硬化を起こした組織にいると変化は起こせないのかもしれません。でも、変化を起こせないなら、あなたがたの存在意義なんてないんで、是非頑張って欲しいと思っています。
木村剛氏によるBlogで、氏がアメリカのハゲタカの手先に見られていることを自らのふがいなさとして反省している。ずっと日本を離れているので、日本での木村氏のイメージが相変わらず変わっていないのかと、残念に思った。まあ、オールバックで、のっぺりとした受け答えをTVでしているのを見ると、まあ大衆受けは絶対しないんだろうと容易に想像できるのだが。
『日本資本主義の哲学』を読むと熱い人だというのが分かるんだけどね。やっぱり本を読むということはまだ敷居が高いんでしょうね。
日本てほぼ100%の識字率を誇っているし、大学教育を受けた人間もうろ覚えだけど50%ぐらいいるはず。だけどそのほとんどの人が、メディアが作ったイメージ映像で情報収集をしているという悲しい事実。テレビの表面的なイメージや情報操作に踊らされていると、結局損するのは自分なのにね。メディアは金になる人間を作り出す道具なんだから。
「本当の自分」がいるなんていう発想がでてきたのは、まさにその一例なんかじゃないかななんて思う。メディアで作られているかっこよさげな人のイメージを見て、又巷に氾濫しているパッケージ化された「プラス思考による夢実現」みたいなものを頼りに生きている人が多すぎる。その結果「こうありたい」といことばかりに気を取られ、「何をしたい」や「何をするべきか」ということを全然見つめられなくなっている。自分は自分でしかないんだから、そこで何をするのか考えようよ、いいかげん。
Fight Clubという映画で「自分を特別と思うな、死んだらただの土だ」みたいな台詞があったように思うんですが、それが僕の基本です。アメリカで勉強できるというのは、すごく恵まれているし、周囲の人間や環境にすごく感謝しているけど、僕は特別な人間ではない。特別である必然性がない。ただ、自分がやらなくてはいけないと思っていることがあります。それは、ざっくりといってしまえば、現場の人間が自ら考え、行動できる組織作りについてまとめ、実践に移すこと。これが僕の課題だと思っています。
うーん、言葉遊びになるのかもしれませんが.....
もっと輝ける自分があるのなら、それを実現していく過程に自分が今いるなら、その過程も自分な訳で。現在、もし自分が輝いていないなら、その輝いていない自分が「自己像」であり、「もっと輝いている自分」というのは、自分の夢や希望だったりするのではないかと思います。
っていうか、輝いていないと自分じゃないんですか?ということを言いたいわけです。
例は悪いんですけど、親って子供があまり輝いていなくても、子供が一番大切ですよね。ということは、十分「大切な存在」なんですよね。輝いているかどうかなんて、すごく2次的なもので。
欲や、夢や、希望を否定するわけじゃないんですが、足元が見えなくなるんじゃないかなあと思うんですよ。「本当の自分」という概念は。
例えば、新興宗教なんかでドーンと「君は本当はこうすべきだ」みたいなものを断定的に言われてしまうと、すごく頼りたくなるというメンタリティって、こういうわけの分からない「自分って、もっとすごいはず!」みたいな貪欲さが原因になっている気がするし。
洗脳という意味では、このマーケティングが発展した社会そのものが洗脳装置になっていると思うことがあります。マーケでは「もっと輝ける自分になるために」みたいな商品が沢山あって、それで経済活動が成り立っているし。「もっと素敵な自分」みたいな概念を育てる環境があるなぁと。
変に「本当の自分」と「輝ける自分」の差を、自意識の中に持ち続けるとつらくなるだけだから、そんなもんより、身の回りにあるものを大切にしていけばいいんじゃない、なんて思います。その方が楽だし楽しいかなと。
本当の自分の存在とかって信じていますか?僕は現在生きていて、Blogを書いている人間以外に、どこかにかがやいている本当の自分が存在するということを認めません。
でも、こういうことを信じている人って多いですよね。なんででしょうか?
僕は洗脳が関係していると思っています。
疑問を持ったときって、どうします?人に聞きます?とりあえずほっときます?それとも、調べます?
まあ、どれか一つのアプローチしかとらないということはないでしょうが、やはり、どれが好みかみたいなことはあるんじゃないでしょうか。僕は、出来る限り自分で調べて、分からなければ、必要がある場合以外はほっときます。人に聞くというのがすごく億劫なんです。色々と人に質問を受けることが多いため、それがわずらわしくて、逆に人にうっとうしく思われたくないというのがあるんでしょうね。
アメリカ人を見ていると、非常にストレートになんでも質問します。いや、そういう奴が目立ちます。そうじゃない奴もいるけど、そういう人は黙っているので見えないだけだろうし。とはいえ、やっぱりストレートな質問が多い。
ストレートな質問をすることは、なんとなく「素直でよいこと」という風なコンセンサスがあるように思われますが、僕はこれにはすごく懐疑的なんです。ストレートに分からないことを聞くと、答えがかえってきたとき、自分で考えることなく受け入れてしまう気がするんです。まあ、自分が人にストレートに質問するのがこわいので、そんなこと言っているだけかもしれませんけどね。